2020年3月、雲仙小学校が133年の歴史に幕を閉じました。
ウェブマガジン「つむぐつなぐうんぜん」は、この小学校の最後を記録に残したいという想いから始まりました。
閉校から3年が過ぎ、旧雲仙小学校は交流スペースとして利活用が始まっています。ウェブマガジンの運営者でもある私はこの小学校で縁あって3度の写真展を開く機会をいただきました。そのどれもが想いの詰まった写真展になりました。
3,「妹さんたちの感謝の演奏会」
【傷ついた写真はそのまま見せたいです】
雲仙温泉で土砂災害が発生し、大きな悲しみが広がったあの日から1年となった2022年8月12日。
前回特集でも紹介した、雲仙温泉観光協会の森優子さん(特集「小さな小学校の写真展②」)と両親が犠牲となった森家の遺族で、優子さんの妹さん2人が雲仙BASEで「森さん家の演奏会」を開いた。雲仙BASEは優子さんも妹さんも過ごした母校でもある。
演奏会は、次女・橋爪啓子さんがお母さんが好きだったコーヒーを提供し、三女・森真衣子さんが音楽が好きだった3人を見て始めたというトランペットの演奏をするもので、1年前の災害でお世話になった人たちに感謝を伝えたいと企画されたイベントだった。
これまで写真展を2度この場所で開いていた私に、雲仙観光局の手島晋一郎さんから声をかけていただき、この演奏会の会場での写真展示で参加することになった。手島さんは災害時、亡くなった優子さんの同僚として、捜索はもちろん、メディアへの対応や妹さんたちのケアなどで活躍した人だ。
今回は、自分がお願いして撮ってもらったこれまでの写真展と違い、森家の家族写真の展示。中には土砂の中から見つかって、傷ついた思い出を妹さんたちが1枚1枚丁寧に洗浄した写真もたくさんあった。その数は約2500枚。会場である旧雲仙小中学校(当時)の体育館を埋め尽くすほどの数で、洗っては乾かす作業を繰り返すのに1ヶ月かかったという。
そのどれもが誰にでもあるような家族の日常で、自分にできるかな・・・という不安が大きかった。声をかけてくれた手島さんには「会場を訪れる皆さんより、妹さんたちのために頑張っていいですか?」と伝えつつ、自分に言い聞かせていた気がした。
三女の真衣子さんとは打ち合わせを数回させてもらい、家族の思い出話や見つけた写真について、どんな写真を展示したいかなどを聞いた。
「傷ついた写真はそのまま見せたいです」
との強い一言で、昔の写真の一部は傷だらけのまま展示することにした。
写真の縁が洗浄で色が落ちてしまったもの。土砂の中から見つかり、破損してしまったもの。
「災害はこんな幸せな日常を一瞬で奪ってしまう」という現実が少しでも伝わればとの思いだった。
写真は、見つかった思い出の写真以外にも優子さんや父・保啓さん、そして母・文代さんの職場や友人がこの日のためにと貸してくれた写真も含め、60点を展示した。
啓子さんと真衣子さんは写真の展示について、
「3人がいなくなってしまった今、 家族の思い出が更新されなくなってしまいましたが、 今まで知らなかった家族の思い出をこの災害で知ることができました。たくさんの写真に詰まった思い出がこれから私たちの支えになることは間違いありません」
と話す。
演奏会には150人の人たちが訪れ、啓子さんの淹れたコーヒーと真衣子さんのトランペットの音色を楽しんだ。啓子さんの優しさや真衣子さんの強い意志、そして2人の元気な姿を見て安堵した人も多いと思う。(※ 演奏会の様子はこちらから→「森さんちの演奏会①」)
翌日、静かになった雲仙BASEで写真の片付けをしたあと、被災現場に手を合わせて、借りていた写真を返しに手島さんに会いに行った。
手島さんは「2人が笑顔でよかったね。それが1番よ」と言っていて、私も「よかった」と胸を撫で下ろした。
雲仙温泉で災害が発生したあの日、森家の3人の捜索が行われていたあの時期、なかなか止まない雨に自分は何をすればいいか、戸惑いながら、もどかしくなりながら仕事に向き合っていた。最近では、全国各地で自然災害が激甚化している。仕事柄、雨の多い時期は雨と、台風なら台風と向き合うことが多いため、警報や避難情報が出ると、胸騒ぎがしてしまう。
そんな時、2人の妹さんが言った、「家族の思い出が更新されなくなる」という言葉の重みを毎回思い出している。
保啓さんが撮ったアイドルのような文代さんの写真。
笑顔の絶えない3姉妹の写真。
不在となってしまった3人。
自分が巻き込まれた3人だったら、または残された2人だったら・・・。
3度目の小さな写真展。たくさん見させてもらった、森家の日常が私自身に問いかけてくれたものは大きかったように思う。それは展示された写真を見た人たちにもきっと。